東大のミスコン候補者が運営のセクハラを告発したことをきっかけに、改めてミスコンのあり方が問われている。「容姿で人を格付けするのってどうなの?」という疑問は、とても現代社会らしいといえるだろう。
モデルの写真を加工せず載せることが健全性アピールになり、整形大国といわれる韓国エンタメ界でも一重で整形をしないスターたちが出てきている。 「一方的な美の価値観」を求められることに対する嫌悪感や抵抗感が大きくなる一方で、自分らしい見た目を選ぶ人が支持されているのだ。
そんな流れのなかで、ミスコンが「時代遅れの遺物」として槍玉に挙げられるのも、当然といえば当然かもしれない。
しかし本来ならば、美しい容姿はその人の強みのひとつでもあるはず。それを褒めたり、認めたり、評価することも、「悪いこと」なんだろうか? 「美」という武器をもっている人がそれで戦うこと自体をも、否定してもいいのだろうか?
美を武器にしてはダメなのか
さて、容姿決定戦であるミスコンについて、あなたはどう思っているのだろう。 「ルッキズムを助長する悪いもの」派? 「別にいいじゃないか」派? 「どうでもいいよ」派? わたしはというと、「別にいいんじゃないか」派だ。というのも、ミスコン候補者はみずから容姿を武器として、「見た目」という土俵で戦うことを選んだ人たちだから。そして「見た目」とはほかの才能と同じように、単に生まれながらのものだけではなく、様々な努力や内面もふくめて磨かれるものだからだ 。
ミスコンを見ると心がざわつく理由
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わたし個人としては、「女が見た目を磨くのは当然でありマナー」という考えは好きじゃない。すっぴんでスーパーに行きますがなにか? くらいに思っている。しかし、「美」を武器にして戦うこと自体を否定しようとは思わない。 たとえば、テレビをつければ毎晩のように現役東大生や有名大学出身の芸能人によるクイズ番組が放送されている。それを「偏差値主義・学歴主義を助長する」と批判する人がいるだろうか? 少なくともわたしは聞いたことがない。 芸能人でだれが一番ピアノがうまいのか? 速く泳げるのか? 剣道が強いのか? 字がうまいのか? そういった頂上決定戦の存在が問題になったことがあるだろうか。そんなこといったら、一番を決めることを前提としたスポーツ大会なんて全部アウトになってしまう。 「その分野で強い人たちがそれぞれの武器で戦う」という意味では、ミスコンも同じはず。高校生クイズで名だたる進学校の生徒たちが早押しするように、甲子園で高校球児が青春の汗を流して白球を追うように、その大学の学生たちが自分で努力して磨き上げた美しさをアピールしているだけだ。 写真の過度な修正や健康を損なうレベルのダイエットといった「不健全な戦い」はもちろん否定するけれど、「高校生クイズや甲子園はよくてミスコンはダメ」というのは、いまいち釈然としない。 とはいえ、高校生クイズを見てもなんとも思わないのに、ミスコンを見ると心がざわつく人の気持ちもわかる。なぜなら、だれしもが、望まないまま「容姿」という土俵で戦うことを強いられた経験があるからだ。
勝手なジャッジメントに傷ついた体験
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容姿について他人にとやかく言われて嫌な思いをした……なんて経験は、老若男女だれにでもあるだろう。人間、とりわけ女性は、自分が望まなくとも「容姿」という土俵で戦うことを強いられる。 「今日は化粧手抜きだね」「最近太った?」なんて無神経なことを言われたり、化粧してないと客前に立たせてもらえなかったり。ミュージシャンYoutuberのコメント欄に「かわいい」「いやブスだろ」が並び、週刊誌には最近テレビで見ない芸能人を「劣化」「老けた」だのと評する見出しが躍る……。あぁ、面倒くさい! たいていの人間は、無理やり高校生クイズにエントリーされてまわりからダメ出しされたり、野球素人なのに球速で格付けされたり……なんて経験はない。ピアノがヘタで不利益を被ったこともないだろうし、オセロが弱くて人格否定されたとまで思ったこともないだろう しかし容姿に関しては、日常的に他人から口を出され、評価され、格付けされる。「もうウンザリだ、放っておいてくれ。お前のために化粧してるんじゃない。あんただって人のこと言えるほどいい見た目してるわけじゃないだろ」。そんな言葉を何度飲み込んだことか。 「化粧しろ、おしゃれしろ、ダイエットしろ……そういう押し付けがうっとおしい。それならもう、容姿で判断すること自体をなくしちゃえばいい」となった結果が、「ミスコンは時代遅れの悪しき風習」という結論なのだろう。まぁ、自然な流れではある。 たしかに、他人から容姿で勝手にとやかく言われるのは勘弁願いたい。しかしその一方で、ミスコンのように「美」を武器にすること自体も否定していいものだろうか? とも思う。
容姿端麗は魅力のひとつ
たとえスポーツでも審査員によるジャッジメントのときは不満も出てくることがある。明らかな優劣で決められない曖昧さが「容姿」には当然ある Photo by iStock
そもそも、容姿端麗は人間の魅力のひとつであり、「良いこと」である。「頭がいい」「かわいい声をしている」「足が速い」「インテリアのセンスがいい」と同じように長所だ。 しかし、容姿で判断すること自体が悪いことになるのであれば、それを強みにしている人たちの良さをも否定することになってしまう。容姿で戦う場であるミスコンをすべて否定するとはつまり、そういうことなのだ。 これは、学歴不問の採用活動を謳う企業が現れたのと同じ流れでもある。「偏差値で人を判断するのはよくない」というもっともらしい理念を掲げてはいるが、それは努力して優秀な成績で学問を修めた人、難関大学に入学した人たちを意図的に無視することでもある。 学歴は親の年収によって決まる、偏差値と仕事の出来は比例しない……たしかにそういう面もあるが、だからといって「がんばって勉強しました!」という武器を取り上げていいものだろうか。 容姿だって同じだ。たしかに、生まれ持ったものも大きい。しかし、一生懸命アルバイトして化粧品を買い、季節やシチュエーションごとにメイク方法を研究し、ジムに通い、朝早く起きて栄養バランスがいいお弁当をつくり、寝る前はパックして、「美しい」という武器を手に入れた人だっているのだ。 ただ学業やスポーツと異なるとすれば、「容姿」は明確な優劣の判断基準をもっていないこと。偏差値や足の速さといった数値では測れず、主観的な判断にならざるをえないあいまいさが、「容姿ジャッジメント」に対する不満や嫌悪感につながっているのだろう。 では、「容姿」で戦う人、戦う場を否定すれば、多くの人が幸せになれるんだろうか。
勝手にジャッジされるのはおかしい
なんやかんやいって、見た目で印象が変わるのはたしかだ。努力でどうにかできる部分もあるし、どうにもならない部分もある。 人前に出れば勝手に「容姿」という土俵に立たされるわけだから、容姿に関連するトピックに過敏になるのも理解できるし、過度な見た目主義を警戒するのもわかる。「良い見た目の人が得をすると、相対的に良い見た目でない人が損をするから、ルッキズム助長になる。だからやめよう」。これもまた気持ちはわかる。 でも、だからといって、ミスコンのように容姿を強みに戦うことを否定するのは、ちょっとちがうんじゃないだろうか。問題は、キレイな人がそれを強みにすること自体ではなくて、その土俵で戦う気がない人に対して第三者が「キレイになれ」と強制したり、「もっとこうすべき」と押し付けることだと思う。 本人たちが望んだうえで行われるミスコンは、たとえば「学内美人ランキング」のように、当人たちが知らないまま第三者が容姿で格付けすることとは大きく異なる。だってその人たちは勝手にジャッジされていて、容姿で戦うことを望んでいないから。 プロ棋士や陸上選手のように「美」という武器で戦っていない人を、「美人すぎる○○」と評するのも的外れ。その人たちの武器は容姿ではないから。 わたしは、ミスコンの存在自体は否定しない。「美」という武器で戦いたい人は、「容姿」という土俵のなかで思う存分戦えばいい。でもその土俵で戦う意志がない人を、第三者が勝手にその土俵に放り込むのはやめようよ、とそれだけである。
雨宮 紫苑(ドイツ在住フリーライター)