ピンク色の小さなカップケーキがいっぱいのデザートテーブル。キラキラ輝きながら回る天井のミラーボール。金色のきらめく布で飾られた客席。そんな会場で、ディスクジョッキーが雰囲気を盛り上げる。
2019年6月のある木曜日。米ミシガン州南東部のディアボーン(訳注=フォード・モーター本社の所在地)にある「フォード地域・舞台芸術センター」のダンスホールで、本格的なショーが開かれていた。
でも、ワインはなかった。代わりに、赤ブドウでできたウェルチのスパークリングジュースが出されていた。この晩の唯一最大の見せどころは、コーラン(イスラム教の聖典)からの数々の朗唱だった。
手品も登場した。手品師は、冗談めかして芸を紹介した。「これは、(訳注=イスラム教の戒律に従った)ハラル・マジックです」。
音楽はといえば、イスラム風のヒップホップだった。
ミスコンテストが米国の文化の一つとして根づいて、もう1世紀にもなる。しかし、2017年に始まった「ミス・ムスリマUSA(Miss Muslimah USA)」のコンテストは、すっかり定着したこの種のイベントのあり方に一石を投じようとしている(訳注=「ムスリマ」はイスラム教徒を意味する「ムスリム」の女性形)。
その基盤は、米文化の一端を担う伝統行事の形式と、信教の自由とが交差するところにある。しかも、よって立つこの二つのいずれもが、(訳注=女性差別との批判や反イスラムの動向などで)流動化しているように見える時代に生まれている。
ミス・ムスリマは、米国の伝統的な儀式とすらいえるイベントに、信仰心を曲げることなく出場する道をイスラム教徒の女性(とくに、頭髪を覆うヒジャブをかぶる人)に開いた。モットーは「慎み深さと内面の美しさの促進」。オハイオ州コロンバスに住む黒人のイスラム教徒で、母親でもあるマグリブ・シャヒド(39)を創設者としている。本職は、慎み深い服装のデザイナーだ。
自分を始めとするヒジャブ姿の女性が、イスラム差別の矢面になっているとシャヒドは感じていた。
米国のイスラム社会は300万人以上を数え、多様な人種で構成されている。一方で、(世界的なミス・コンテストを運営していたこともある)トランプ大統領が、その発言や厳しい移民政策を通じてイスラム嫌悪をあおり立てている現実がある。
「私たちは、一目でイスラム教徒と分かる。最初に苦しめられるのも私たち」とシャヒドは語る。「だから、自分たちへの誤解を解消する機会を、イスラム教徒の女性のために設けたかった」
初回のミス・ムスリマで部門別の栄冠の一つに輝いたハリマ・ヤシン・アブドゥラヒ(23)の胸には、今もその感動が残っている。「真に強い自信を得ることができ、欠点すらも的確に評価することを学んだ」と振り返る。そして、「これが私。こういう存在として生まれたんだ」と自覚できるようになったという。
応募はイスラムの教えを実践していることが条件で、17歳から30歳までの年齢制限がある(初回は40歳までだった)。250ドルの手数料を納め、事前審査に通らねばならない。
本選に進むと、四つの部門のどれに出るかを選ぶことになる。「アバヤ」(ゆったりしたガウンのようなドレス)、「ブルキニ」(全身を覆う水着)、特定の機会に着る「慎み深いドレス」(あまりタイトな衣装は失格になる恐れがある)、「才能披露」(詩の朗読かコーランの朗唱)の各部門だ。
さらに、必修項目が一つある。「栄冠を手にしたら、世界にはびこるイスラム教徒女性への誤解をなくすのに、ミス・ムスリマUSAのタイトルをどう使うか」という設問だ。全員が答えねばならない。
優勝すると、タイトルを1年保持できる。一定の行動基準を守る契約をした上で、主催者側の意向を受けて活動する。また、慎み深い服装のブランド「Perfect for Her(貴女にピッタリ)」が毎年開くファッションショーの舞台に、モデルとして立つことになる。スポンサーとの交渉やファッション企画への出演契約は、シャヒドが手伝ってくれる。
17年の初回には広告スポンサーが付き、5千ドルの賞金も出た。翌年から賞金はなくなったが、いずれは奨学金を出すこともシャヒドは考えている。
創設時は自前の乏しい予算で準備を進めねばならず、シャヒドの地元コロンバスでの開催となった。そこに、自分の貯金を取り崩して招いたのは、ソマリア系米国人モデルのハリマ・アデンだった。前年の16年に、ミス・ミネソタのコンテストに初めてヒジャブをかぶって出場していた。(〈訳注=すぐに、モデルとして活躍するようになり、〉19年には、米誌スポーツ・イラストレイテッドにも登場し、〈訳注=水着特集号の〉紙面を初めてヒジャブとブルキニ姿で飾った)。
「金持ちになるとか、裕福に暮らすとかということとは関係ない。ものごとを根本的に変え、実際に影響をもたらすようにしたかった」とシャヒドは顧みる。「このコンテストからみんなが間違いなく恩恵を受け、人生も、心のありようも変わるほどのものにしたかった」
シャヒドがミスコンテストに熱中するようになったのは、子供のころだった。いつかは自分も出ると自身にいい聞かせていた。
しかし、大きくなるにつれ、「服装も含めて、私のような格好をしている人がいないことに気づいた」。そして、「夢は遠のいていった」。
ミス・ムスリマを開催するようになった今は、「出場者を通して、自分の夢を実現させている」。
19年7月のミス・ムスリマの舞台裏。(訳注=前月の「才能披露」とは別部門の)出場者たちは、呼ばれる前の準備に余念がなかった。袖や襟首に独自の工夫をこらした衣装の着こなしを整え、中には他の人と助け合う姿もあった。
その一人、アンドレア・ラハル(30)は、姉妹のアマンダと従姉妹のアマルの手を借りた。スパンコールをちりばめた銀色のガウンにうまく身を包み、白いヒジャブをきれいに巻かねばならなかった。
レバノン人の両親のもとに生まれ、ディアボーンで育った。全米で最も多くのアラブ系住民が暮らす街の一つだ。8歳からヒジャブをかぶるようになり、今は瀉血(しゃけつ)の専門医兼医療助手として働いている。2人の子供のシングルマザーでもある。
19年のミス・ムスリマのために、地元の地域社会で賛同者を募り、30ものスポンサーを開拓。シャヒドを説得し、会場をコロンバスからディアボーンに引っ張ってきた。
「こんなコンテストがあるなんて、知らなかった。まるで、降ってわいたような機会だった」とラハルは話す。「ミスコンテストへの出場は、ずっと夢見ていた。せっかく出会った好機なので、リスクを恐れずに挑むことにした」
ガウンドレスをまとった出場者は、客席に突き出したステージの上を次々と優雅に歩いた。
あわせて、カーター・ザヘルが歌った。人気のムスリム・ヒップホップ・デュオ「ディーン・スクワッド」(訳注=ハラルを踏まえた歌で知られる)の元メンバー。ヒット曲「カバーガール」のこんな歌詞が、会場に響いた。
「彼女は平和の象徴さ。自分で考えて話し、服装だって強制されずに自由に選ぶ……頭にはスカーフ(訳注=ヒジャブ)が揺れる。まるでイエスの母みたい(訳注=聖母も頭髪を覆っている)」
続くスピーチ。それぞれの衣装をまといながら、さまざまなテーマが語られた。イスラム嫌悪、フェミニズム、自立。そして、(訳注=一面的な思い込みを捨て)米社会の中の多面的な素顔を持つ存在として見てもらいたいという願いが。
「私は、イスラム教徒のフェミニスト」とアイオワ州デモインの看護学生ゼイトゥナ・モハメド(22)は舞台の上から語りかけた。「この二つの言葉は両立しないと思われるようだけれど、それが間違っていることを証明するために私は今、ここにいる。私は抑圧されてもいないし、受け身でもない。もちろん、かごの鳥のように閉じ込められてもいない」
ケンタッキー州代表のウムハニ・アブドゥラヒ(20)は、「ここ米国が私の故郷」と話しかけた。「そう。今現在の私のただ一つの故郷。私のような女の子たちが、ファッション誌や広告塔、コカ・コーラの宣伝に出ることを心から願っている。もちろん、映画にも。できれば、Netflixで流してほしい」
米国の他のミスコンテストと同様に、ミス・ムスリマもその正統性を築くために、いくつかの問題を整理せねばならなかった。
17年の初回のある部門を制した歯科医はその後、自費で各地を講演して回った。しかし、その内容がミス・ムスリマの方針と一致しなくなり、あと1カ月を残してタイトルを取り消された。この歯科医は、ニュージャージー州で理科系教育を促すミスコンテストを創設し、今ではミス・ムスリマ側との関係を修復している。
19年にも、問題が生じた。やはり栄冠の一つを手にした17歳との間で、契約上の解釈の食い違いが生じ、縁を切らねばならなかった。機械工学を学び、地元のウィスコンシン州ではティーンのミス・コンテストの準決勝まで進んでいた。その後、州の代表となり、女性のイスラム教徒として初めて全米大会に出場した。それでも、ミス・ムスリマ側としては、契約の解釈を緩めるわけにはいかなかった。
18年には、コーランの朗唱と詩の朗読のどちらかを選択できるようした。イスラムに新たに改宗した人や、アラビア語を話せない若い女性を迎え入れるためだ。
20年からは、ヒジャブをかぶらないイスラム教徒でも、ヒジャブ姿の女性たちと一緒に出場できるようになる。米国外(カザフスタンと英国)からも、2人が加わる予定だ。
ミス・ムスリマの可能性を開拓し尽くすには、すべきことがあまりに多いとシャヒドはいう。
引き合いに出すのは、「ミスUSA」(訳注=世界一を競うミス・ユニバースへの米代表選考会を兼ねている)の成功だ。(訳注=1921年に始まり、米国で今も続く最も古いミスコンテストとなった)「ミス・アメリカ」の優勝者が、1950年に公の場での水着姿の撮影を拒否したできごとがきっかけとなり、そこから分かれる形で(訳注=1952年に)創設された経緯がある。
「今のようなところまで築き上げるには、ミスUSAも時間がかかった」とシャヒドは指摘する。
では、ミス・ムスリマUSAはどうか。
「これから10年、応援してもらえるのなら、こちらだって負けないほど素晴らしい勢いをつけているだろう」(抄訳)
(Liana Aghajanian)©2020 The New York Times