ここ数年、
学校や地域、団体単位で
ミスコンが廃止される動きが相次ぎました。
理由として挙げられるのは、
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差別的だという声
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時代に合わないという判断
-
トラブルや炎上を避けたいという事情
一見すると、
「廃止=前進」のようにも見えます。
しかし、
本当にそれは正解だったのでしょうか。
ミスコンをなくしたことで、
何が改善され、
何が失われたのか。
この問いは、
感情ではなく結果から考える必要があります。
なぜミスコンは廃止されるようになったのか
まず、
ミスコン廃止の背景を整理する必要があります。
廃止の理由は一つではありません。
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外見評価への違和感
-
女性だけが対象になる構造
-
比較や順位づけへの批判
これらは、
長年積み重なってきた問題意識の表れです。
廃止は、
その声に対する最も分かりやすい対応でした。
廃止によって実際に変わったこと
ミスコンが廃止されたことで、
確かに変化した点があります。
良かった点
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見た目による比較が表に出なくなった
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一部の人が感じていた不快感が軽減された
-
議論や対立が起きにくくなった
短期的には、
「問題が消えた」ように見えます。
見えにくくなっただけの問題もある
一方で、
廃止によって見えなくなった問題もあります。
-
見た目で判断される文化自体は残っている
-
評価の場が非公式な場所に移動した
-
誰も議論しなくなった
ミスコンがなくなっても、
見た目を巡る不平等が
消えたわけではありません。
ただ、
語られなくなっただけです。
廃止によって失われたもの
ミスコンが持っていた役割の中には、
問題を抱えつつも、
一定の価値を持っていたものがあります。
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自分を表現する機会
-
可視化される議論の場
-
問題を考えるきっかけ
廃止によって、
これらの機会が
一律に消えてしまったケースもあります。
当事者の声はどこに行ったのか
重要なのは、
ミスコン廃止が
誰の声によって決まったのかという点です。
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出場したい人
-
出場経験者
-
迷いながらも意味を見出していた人
こうした当事者の声が、
十分に拾われないまま
決断された例も少なくありません。
「守るための廃止」が、
別の選択肢を奪ってしまうこともあります。
廃止は「解決」ではなく「停止」に近い
ミスコン廃止は、
問題への対応として
間違いだったとは言い切れません。
しかしそれは、
解決というより停止に近い対応です。
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問題を議論しない
-
摩擦を避ける
-
表に出さない
この選択は、
短期的には静かになりますが、
長期的な変化を生みにくくなります。
変えるという選択肢はなかったのか
ここで考えるべき問いがあります。
-
なくす以外の方法はなかったのか
-
評価軸を見直すことはできなかったのか
-
形式を変える余地はなかったのか
廃止は、
最も分かりやすい答えですが、
唯一の答えではありません。
ミスコン廃止が正解だったかどうかは誰が決めるのか
「正解だったのか」という問いに、
一つの答えはありません。
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不快だった人にとっては正解
-
挑戦の場だった人にとっては喪失
-
社会全体にとっては保留
立場によって、
評価は大きく変わります。
だからこそ、
一律の正解を出すこと自体が
難しいのです。
問題はミスコンではなく、向き合い方だった可能性
ミスコンが問題だったのではなく、
それをどう扱ってきたかが
問題だった可能性もあります。
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誰のための場だったのか
-
誰が語り、誰が黙らされていたのか
-
評価がどう使われていたのか
これらを問い直さないまま廃止すると、
同じ問題は
別の形で繰り返されます。
廃止後に残された課題
ミスコンがなくなった今も、
次の課題は残っています。
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若者が自分を表現する場は足りているか
-
評価の基準は多様になったか
-
見た目に縛られない文化は育っているか
廃止はゴールではなく、
スタート地点だったはずです。
まとめ:ミスコン廃止は「問いを終わらせていいのか」
ミスコン廃止は、
間違いでも、正解でもありません。
それは、
一つの選択にすぎません。
重要なのは、
廃止したことで満足してしまい、
問いを終わらせていないかどうかです。
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なぜ問題だったのか
-
何を守りたかったのか
-
これからどうするのか
これらを考え続けなければ、
廃止は単なる回避になってしまいます。
ミスコンをなくすことよりも、
ミスコンが問いかけていた問題に
どう向き合い続けるか。
そこに答えを出さない限り、
「正解だったのか」という問いは、
これからも消えません。
そしてその問いは、
ミスコンだけでなく、
私たちが評価や差異とどう向き合うか
という、社会全体の問題でもあるのです。





















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